「お墓に入りたくない人 入れない人のために
−散骨・樹木葬・手元供養ほか『お墓』以外の全ガイド」 徳留佳之 著
はじめに
永六輔さんの『二度目の大往生』と『終大往生その後』に、作家の住井すゑさんが、ご主人の墓をつくっていないという話が出てきます。
「だって、お墓にいれちゃったら、彼も私も、淋しいじゃないですか。惚れた亭主です。惚れた男なんだもの、その男の骨なんだもの、骨壺は、いつでも抱けるところに置いてあるの。そのほうが楽しくっていいし、だいいち、墓参りする手間もいらないし……。」 住井すゑさんの『橋のない川』を書き続けている机のそばに、ちゃんと亡くなったご主人の骨壺が置いてあった。 「もう何十年も、ここにあるのよ。いろいろ話もできるし、賑やかでいいでしょ」(『終大往生その後』[岩波書店]より)
住井すゑさんは、1997年に95歳で亡くなられていますが、ご主人が亡くなられたのは1957年ですから、いまから50年近く前からのことです。「元祖手元供養」とでもいえそうな話です。夫の犬田卯さんは、享年66。すゑさんの腕のなかに倒れ息を引きとったそうで、葬儀は無宗教で行われました。もっとも、夫の著作『日本農民文学史』の印税を東京青山の無名戦士の墓地拡張費に寄付した縁で、遺骨の一部は同所に納骨しているようです。 作家をはじめ、有名人は個性的な人が多く、平凡に生きることや慣習に従うことを好まないケースが多いでしょう。しかし、遺骨を手元に置いておきたいという気持ちは、残された側の感情としては決して特殊なことではなく、とくに日本人の多くには共通する感情かもしれません。そして、最近になってようやく、遺骨を手元に置くことが「手元供養」という言い方で社会的にも認知されはじめ、これをお墓のかわりにする人も出てきました。 また、散骨など、お墓そのものをつくらない考え方も次第に浸透しつつあります。自然にも還れず、自然破壊にもつながるこれまでのお墓を嫌い、樹木によるお墓を求める人も出てきました。自分の信じる宗派の本山に納骨し、自分のお墓をもたないケースも見受けられます。つまり、いまや「死んだらお墓」とは限らないのです。 戦後60年が経ち、ようやく「死んだらお墓に入るもの」という固定観念が揺らぎ始めています。お墓を継げる人がいなくなったり、お墓を残す人も残される人も、迷惑や負担に思うことが多くなってきたいま、そもそもお墓とは何なのか、本当に必要なのか、ほかの選択肢はないのかを、じっくり考え、検討してみるときではないでしょうか? 本書では、まさに「お墓に入りたくない人、入れない人」のために、まずお墓以外の選択肢を詳しく紹介し、次に、なぜそうしたものが求められるようになってきたのかを解明し、最後に、そもそもお墓とは何だったのかを問い直す構成となっています。
本書が、数多くのお墓に入りたくない人、入れない人のために、何らかのお役に立てば幸いです。
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